迷い道に魅せられて/トドワラ・ナラワラで心を洗う 北海道野付半島

北海道は野付半島。観光資源としては無名であり、ガイドブックの片隅に少し書かれるだけのこの場所は、生死の普遍と時の流れを教えてくれる貴重な場所だ。

 

生き物の生死は世界のどこででも、リアルタイムで起こっている。そこには必ず、嬉しさと悲しさが入り交じる。

 

人間は肉親が亡くなれば悲しいし、子供が生まれれば、自分が生きた証ができたと喜ぶことができるもの。弱肉強食の激しい自然の中だって、その感情は各々の動物が持つに違いない。

 

ならば、植物はどうだろう。鑑賞用にと消費される生花や、材木として切られてしまう松や杉には、田畑や稲には、気分はないのだろうか。そこまで考えてしまっては、私達は生きて行けなくなるかもしれない。悲しみに潰されて。

 

野付半島の先を見渡す

 

野付半島

生き物の生と死を感じたいときに行きたい場所

だから、植物や食料について、いちいち言及するのはタブーだと思う。一部、動物を食べずに暮らすだとか、豚は食べないなど己にルールをきせる人たちも居るのだが、見る人によっては大事なことで、見る人によっては馬鹿げている。これは人の価値観だから、私には何も言うことは出来ない。

 

けれども、人は暮らす上で何かの生き物を犠牲にしている、という事実は感じていたい。モノの消費は世界を豊かにするけれど、その都度生まれる歓喜には、少し疲れる時がある。そんなときに歩みを止めて考えるならば、まずは生死を見つめ、必要不要を考えることが先決だと思うからだ。

 

そんな漠然とするものを、漠然とみせつけてくれる場所がある。

 

 

自らを小さく思い 地球に対抗する1つにも思う

根室よりも北に位置し、釧路からレンタカーを借りて走ること、およそ100km。私がこの場所に惹かれたのは、見たことのない景色を欲していたからかもしれないし、幻想的なものを探していたのかもしれないし、疲れてしまっていたからかもしれない。

 

2020 年 コロナ下で思い出したのだから、きっと精神的にまいっていたのだろう。

 

標津町をこえ、寂しい町並みの別海町を通り抜ける。野付半島に入っていくと、途端に不思議な光景に巡り会える。

 

走る道路の左も右も、海となる。そこに堤防があるわけでなく、人工物は何も自分を守ってくれない。今津波が襲えば、私は確実に海に飲み込まれてしまう。

 

野付半島をを行く

 

ところが、一見恐ろしい土地なのに、家が建っていたりする。地球の顔に針をさしたような様子は少し滑稽で、気候を変えてしまう人間という動物の凄さを感じてしまう。

 

そんなことを家内と話しながら、野付半島の終点を目指していた。

 

天気は良いとはいえなくて、モヤがかかっては晴れ、また白くなる。自然に翻弄される世界。

 

野付半島を走ると見えるナナワラ

 

不意に見えた、立ち枯れた白い木々たち。白樺ではない。白樺の森は、別の木々が白樺の木陰を利用し大きくなり、別の森に変化する。だから、葉のない白樺を見ることはあまりない。

 

生えている土地にも、周辺とは全く違う様相だった。ドラクエ風に言えば毒の沼地。生き物を拒絶する世界。野付半島で多く見られる、塩の侵食した土地である。

 

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ナラワラの見える景色

 

私と家内は、「わぁ!」と声をあげた。歓喜ではなくて、不安の入り混じった、少し興奮気味の声である。

 

子どもたちにとっては、全てが新しいことだからか反応は薄めであるけれど、大人にとっては今までの自分の常識とは違う世界。動揺をうけるには十分な景色だった。

 

ナラワラの見える景色 
野付半島で立ち枯れたナラの木。奥にまだ自生する木々も居るが、手前の土のように何れは侵食され、消えていく運命であるだろう。

 

ナラワラの見える景色
ナラワラの見えるあたりに、クルマを駐車するスペースがある。野付半島は走っているうちに天気がかわる。見えるタイミングで立ち寄りたい。

 

ナラワラ 海水面の上下や地盤沈下による海水流入によって立ち枯れた、ナラの木。野付半島奥まで進むと、こんどは朽ちたトドマツの木=トドワラを見ることができる。

 

世界の終わりの形相は、このようなものだろうか。地球温暖化の進行で海面上昇が起きた時、世界の沿岸には同じような景色が広がるはずである。

 

その時、立ち枯れ木々を見て、美しいと感じるだろうか。人の営みが世界を変え、死ななくても良かった生き物を死に追いやる。自分の行いは正しいのだろうか。今までの人生を考えなおさせられる景色だ。

 

私達夫婦が子供をつくり、子供を育てることは自然である。その為に本来ならば、狩猟をしなくてはならないし、田畑を耕さなければならないはず。それを人々は計画的に行うことで、食料を確保した。その次は利便性を追求した。今もこの流れは変わらない。

 

私は狩猟も農業もしない。かわりに、ひとつの企業でひとつの仕事をこなしている。私のもつ顧客は便利を得て、私の会社は利益をうける。ひとつの行いが沢山の人々に行き渡る。これは正しいに決まっている。

 

決まっているとは思うのだけど、だんだん自信がなくなってくる。これでよいのかと悩み始める。人の本質を全うするのに、どれだけの犠牲を払っているのか。無価値とされて置き去りになっているモノゴトはないだろうか。

 

だから、私も家内も、この景色をじっと見つめて、無言でいた。立ち尽くすことしかできない世界。モノを言わずして、人の心を串刺しにし、洗い直す力。それは、日本の端にあったのだ。

 

野付半島 ナラワラが見せる景色

 

トドワラも見たかった

野付半島ネイチャーセンターまで行ったが、時間も無く折り返すことに。

 

このさきはクルマで行けず、遊歩道を行くことになる。子供は当時6歳4歳。歩くには辛いだろう。いつか再度訪れて、トドマツの亡骸を見てみたい。きっと新しい心の葛藤を体験できるに違いない。

 

野付半島/トドワラ/ナラワラは、およそ100年以内に見れなくなると言われている。この道も、海の中に入ってしまうのかもしれない。ラムサール条約に登録されているこの地を見られるのは、あと少しなのである。

 

できれば、レンタカーではなく自分のクルマで行きたい場所。退職後に再度行こうと楽しみにしていることの1つである。