どんな自動車にも官能性能は存在する。スポーツカーも、輸入車も日本車も、軽自動車にだって官能性能は宿るんだ…これが2021年に私の書いた記事「どんな車にも官能性能は存在する」の結論。ボルボからプジョーに乗り換えて一年半経った頃の、正直な心情だった。
官能的!というと、スーパーカーに乗ってビリビリしちゃうとか、セクシーな男女を見て身震いするとか、一般的には得られない体験をしてしまった時に感じる電撃的ショックのことを言う。 クルマの誌面でよく見るのは、甲高いエンジ[…]
あれから時が過ぎたが、私はまだその考えを捨てていない。むしろ、その正しさは日ごとに確信になっていく。ネットリと色濃かった輸入車ライフは、私を車の沼にずぶずぶと引き摺り込むには十分だった。安全性とハイパワーというアンバランスなボルボや、デザインと性能に全振り多したプジョーは、私に車の匂いの嗅ぎ方を教え、特に「奇天烈実用エンジンフェチ(初心者)」への道を歩ませた。シビックe:HEVを選ばせたのは、奴らの仕業だったのである。
けれども、時として官能性能は諸刃の刃と化す。私は Peugeot 308SW も HONDA CIVIC e:HEV も、2年半で降りることになったのだから。
HONDA CIVIC e:HEVの官能性能
それはスポーツハイブリッドに尽きる
その理由を述べる前に、まずは HONDA CIVIC e:HEVが見せてくれた官能性能について語っておこう。
シビック e:HEV の官能性能、それはやはり、ハイブリッドシステムに尽きる。ホンダ特有の、四気筒とは思えない滑らかに回るエンジンに、電動モーター駆動でありながら積極的にエンジン音を聴かせる演出を巧みに組み込んだスポーツe:HEVは、奇フェチ(奇天烈実用エンジン)な私が欲しかったパワーと燃費の両立を軽やかに叶え、EV時代の幕開けと囁かれた2023年の空気感にも見事にフィットするテクノロジーだった。試乗の日、一瞬にして私を虜にしたノスタルジーと未来との融合は、技術とオリジナリティを大事にするホンダが紡いだ官能性能だった。
官能性能をサポートするインテリアの仕掛けたち
インテリアもまた、目を見張るものがある。エアコンアウトレットをインテリアと融合させたパンチングメタルは、どこか旧車のラジエターグリルを思い起こさせ、そのくせシビックのグリルは最小限ときたもんだから、そのギャップが面白い。
ダッシュボード上の僅かな折り目は、平衡感覚がわかりやすくて地味にグッドである。赤いステッチの入るシートは合成皮革のコンビシートで、見た目こそ単調だが手触りがよくホールド感も申し分ない。エンジンという官能性能を堪能するために吟味し尽くされた車の中は、実にホンダらしい技術と発想の結晶である。その特別感は、ただの日本車ではないと声高に主張しているようで、私はその演出に心地よく酔っていた。
圧倒的な洗練は分岐点に
そして走りは、総合力で圧倒。あまりにもスムーズな高速道路の乗り味には文句なく、峠道に赴いたところでステアリングフィールは雑味なく、ロードインフォメーションが微小に残る乗りやすさ。ハイブリッド用バッテリーは前後バランスを最適化し、フロントヘビー感はゼロ。あらゆるシーンで欠点が見つからない。シビックは洗練し尽くされていた。そう、あまりにもよく出来すぎていたのだ。
だからか私は、飽きてしまったのである。
洗練は官能性能を否定するのか
シビックでさえも単調と思わせる
官能性能はアクセルオンでいつでも体感できるのだが、それは極めて限定的。加速でしか味わえない演出が、まるで定番化した4コマ漫画のように単調に感じ始め、右足に愛着を込める回数が少なくなっていったのだ。せっかくホンダが必死になって作り上げた官能性能は洗練が引き金で仇となり、魅力はみるみる薄らいでいく。
Peugeot308SWのディーゼルエンジンも…自分自身の飽きっぽさに嘆く
これは、シビックが悪いという話ではない。まったく、困りものは自分自身だ。たぶん、私は飽きっぽい性格なのだ。車は全力で愛するけれど、洗練し過ぎてはダメだし、ならばバカほど可愛いのかと言われれば、イベントの日に乗れなかった Peugeot 308SW のように、やはり許せなくなってしまうのだ。金管四重奏を思わせるディーゼルエンジンの澱みない奏という官能性能に夢中になりながらも、致命的なトラブルで手放す理由を得てしまう。
飽きない車は長持ちする?
単なる実用車なら、そもそも期待などしていなければ、そのまま乗り続けられたかもしれない。直列5気筒を積んだVOLVO V50に8年も乗ったのは、実際のところエンジン音こそ特殊だったが、何かと張り合おうとは一切思わない平凡感がもたらした結果なのかもしれないのだ。
Peugeot308SWやHONDA CIVICが他車より秀でた官能性能があったからーーそして車への期待と愛着が大きかったからこそ、萎みゆく気持ちを止めることができなかった。まったく、車には申し訳ないとしか言いようがないのである。
官能性能のある車=いつまでも持っていたい車にはならない
ここで、この記事のタイトルである。「車の官能や感動は別れを防ぐ理由にはならない」…つまり、この主張は私自身の馬鹿さ具合の話であるし、同志へのメッセージでもある。どの車にも罪はない。どのオーナーにも罪はない。
ある種の「車のつくる感動に共感して買ってしまう族」ーー私のことーーは、このような形で早めに車と別れる可能性がある。家族には迷惑をかけたなーと思いつつ、自分の給料なのだから好きな車を選びたいという甘えも混ざり、官能性能をしっかりと味わったら、その車が本当に嫌いになる前に乗り換えて、良い思い出として大事にする…そんな愛車ライフを描いてしまう。
だが、それは別に悪くないんじゃないか。
実は、新しさに飛びついた上でそのうち飽きるという現象は、珍しいことではないらしい。心理学的には「快楽順応」というのだが、人間という生き物は環境への順応力が高く、新しいという期待感を維持し続けるのは大変なことのようなのだ。
そうであるなら…官能性能のある車=いつまでも持っていたい車、にはならないのは当然で、これこそ今回皆さんに伝えたかったことである。飽きてしまう事も含めて、自分に正直に、愛車と向き合うべきなんだ。だからこそ、官能性能を感じるその瞬間を、全力で愛そうじゃないか。結末なんて気にするもんか。好きな時に好きだと言えれば、私はそれで良いと思うのだ。
もっと直接的に伝えるのなら…そう、車に飽きたからといって、それは恥ずべきことではない、という主張である。
もちろん、これは否定されても仕方がないと思っているし、私自身も「飽きへの恐怖」が無いわけではない。そもそも、ホンダの作り上げた技術は、大いに評価できる事。それに、テクノロジーはいつでも過渡期だ。今は単調と思えたとしても、いつかさらにダイナミックなハイブリッドシステムへと進化を遂げる。前向きに考えれば、過渡期に投資できた事は誇れる事だと思いたいのである。新しさは、またいずれやってくる。その時にはまた新たに、官能や感動を測り直し、あわよくばお金を支払い、手に入れれば良いのである。
あなたの車にはどんな官能性能が宿っているか。そしてそれは、今もまだ色褪せずに、あなたの右足に響いているか。何度でも言おう。官能性能は、どんな車にも存在する。長い期間付き合い続ける事も素晴らしいが、一瞬のきらめきを楽しむことも、何かの得を感じるのである。
さあ、皆んなも愛車の官能性能を満喫して、自分に正直に愛車ライフを過ごそうぜ。