人生は様々な体験をするべきだ。それは人を象る糧となる。船旅もいい、転職もいい、何もしないより行動するほうが楽しくて、たとえ阿呆と言われようが貫くときは貫くべき。人の価値はどこにだって存在する。
クルマで言えばイタリア車。誰もが憧れ、手にせずに終わる心のキメラ。壊れる車の代名詞だが、しかしF1の王者フェラーリはイタリア車だし、スーパーカー=ランボルギーニもイタリア車。人はなぜ、イタリア車に恋焦がれ、そして乗らずに終わるのだろうか。
FIAT 500x
モーター・アーツ
自動車雑誌は、ドライバビリティやら内装の広さやらを華麗に語る。最近はさも大事そうに、ヘッドアップディスプレイとかオルガン式アクセルだとか、人の感じやすい要素をプッシュする。これらは当然、車を所有したときの満足感につながるのだから仕方がない。しかし、その軸だけでは語ってはならないクルマもある。言うまでもなく、FIAT 500xもそんなクルマのひとつである。
なにせ、FIAT 500x SPORT に乗ってから2ヶ月後の印象は、「極めて鮮やかなクルマだった」の一言しか残っていない。ステアリングの俊敏さ?フットワークの安定感?良かったところは良かったはずだし、悪いところもあったはずだ。しかし、鮮やかなクルマという印象だけが余韻にある。
その感情は、隣の席に座っていたちょっと可愛い女の子に恋をしたような、古い心の傷になんだか似ていて、思わずクスっと笑みがこぼれて来てしまうのだ。
アクセルを踏み込んだとき、大げさなメカニカルサウンドで心を打ちのめされた?うん、きっとそうだった。
ロードノイズは結構激しくて、おかげでステアリングで路面に触れているかのようだった? ああ、たしかそうだった。
印象はタイトなのに狭くない、まるで玩具のように沢山のボタンに囲まれたコックピット、褒め過ぎか?褒めなさすぎか?数々の素晴らしい経験は、だがドラマの一瞬のように過ぎ去って、机を隣り合わせにした鮮やかな思い出を包み込みながら私を一人ぼっちの世界に蹴り落とす。
そう、クルマを操る痛快さだけを研ぎ澄まし、心をえぐりきったことは確かなのだ。4人で乗っていたにもかかわらず誰の声も耳に入らず、そもそも忘れる前に入らない。脳裏に焼き付くはずもない。けれども、ステアリングをミリ単位で動かしたことは覚えているし、視界とボディと大地とのバランスと距離感にニヤリとした感覚は輝き続ける。
印象はすぐに別のイメージでやってくる。古い映画で宇宙船がワープするときに迫ってくる、光のズームが現れた。止まりたくない、止まらないは、FIAT 500x から降りたくない気持ちに変わってゆく。もう少しこのクルマと対話をさせろ、吹雪はまだ吹かぬのか、火柱はいつ立ちふさがるのか。あらゆるアドベンチャーをすべて乗り越えていきたくなる気分に私は夢中になったのだ。
いや、何を言っているのか。まったくクルマの良さが伝わらない、と言われても仕方がない。私は今、FIAT 500x について真面目に語ってはいないだろうし、語るつもりも無いのである。ベタ踏みしたときの最高出力も、ロングドライブに有利な燃費も、まったく意味を持たない森羅万象からかけ離れたクルマだった。
ただ、情熱のように激しく燃え盛り、ステアリングを握る人を燃やし尽くす為にあるクルマ。スポーツはパワーじゃない、速さじゃない、車と一体になる事だと教えてくれる懐の良さ。
その上、丸目は本来ファニーなのに硬派に凛々しく車のイメージを伝える技巧は、美男美女の国ならではだ。機械としての完成度はちょっと茶目っ気があるのだが、それで良いと思わせる魅力に満ちている。
ここまで書いて、ふと思い出した。運転していると”ちょっと悪いこと”をしているような気分になったのだ。男子なら記憶があるだろう、進入禁止と書かれた工事現場に入ってみたり、好きな女の子をからかったり、という少年の頃の溢れ出すようなイタズラな感覚だ。(残念ながら女性の気持ちはわからない・・・)そうだ、この繰り返しが自分をつくり、反省し、大人になって今を走り続けていたのだった。
幼さを否定したいわけじゃない、子供の頃の希望に満ちた、新しい朝を楽しみに過ごしていた頃を思い出すことのできるクルマなのだ。幼稚とは未熟であるが、致命的なエラーが起きたって何度でも立ち上がれるパワーがある。そういうクルマであるとしか説明ができないのが FIAT 500x なのである。
どうして人はイタリア車を毛嫌いするのか。こんなにも楽しく、美しく、だが機能的には儚いイタリア車。その理由を少しだけ理解した気になってみる。自分の心を脅かすくらい心に入ってくる強い印象、その結果は、今までの自分の否定である。想像を超える新しさが刺さるから、過去の経験を否定してしまいたくなるのである。「もっと早くイタリア車に乗っていればよかった」となることが、存在感からわかってしまうから怖くて触れることもしないのだ。
それでも、人の旅路は長いのだ。若いうちから刺激を受けて世界を見る目を養うのも良い、鈍感になる老齢を迎え気高さを軽くあしらうのも良い。イタリア車を体験するあざとさが足りなければ、今からでも育んでいくべきじゃないか。
FIAT 500x は、そんな前向きな人間の一番近くに居るイタリア車だ。しかし決して優しいクルマではない。心してかかるがいい。扉を閉めて立ち去るとき、赤い彼は「後悔するなら触るんじゃない」と言ったのだ。
(取材協力)アキタローさん
激舌の持ち主。その研ぎ澄まされた文章は若いながら一目置かれる存在だ。しかし、ご本人はいたって真面目で大人しい。FIAT 500x の似合うクールガイ(ソフトバージョン)。しかしね、30代でこんなクルマに乗っちゃいかん。将来とんでもないクルマを買うことになるぞ(笑)